実家と新居候補を結ぶ道の前で考えるビジュくん。イメージイラスト

「近いから、いつでも来られるよね」。電話の向こうで母親がそう言った。画面を閉じた友人は、少しだけ困った顔をした。東京で働く彼は、故郷そのものではなく、故郷に近い栃木の町へ移ることを考えている。いったん地元を離れ、近隣地域に移るJターン。親の顔を見に行ける距離を保ちながら、自分の暮らしもつくりたい。

けれど「一時間で行ける」は、誰にとっての一時間なのだろう。休日の車なら一時間でも、仕事帰りの平日は違う。頻繁に帰る約束なのか、いざというときに行ける安心なのか。友人はまだ、その違いを親と話していない。ビジュくんは地図を広げるのをやめ、まず電話の言葉を紙に書いた。この話も、移住を考えるための創作例である。

地図の円は、生活の円と重ならない

二人は地図に実家を中心とした円を描いた。車で約一時間の範囲。候補の町がいくつも入る。最初は簡単に選べそうだった。ところが、友人の仕事は出社日があり、夜に帰ることもある。親の用事で動くなら、駅から実家までの最後の移動も考えなければならない。地図の上で近い町が、日常では遠くなる。

そこで候補を三つに絞り、「いつ移動するか」を書き足した。平日の仕事帰り。休日の午前。急ぎの連絡があった夜。移動手段を車だけに頼るなら、使えない日の代案はあるか。費用はいくらか。距離を感覚のままにせず、具体的な場面に置き換える。

友人は一つの町に丸を付けかけて、手を止めた。「ここなら実家には近い。でも仕事には遠い」。Jターンは親との距離だけで決めると、自分の毎日が苦しくなる。仕事、住まい、家族の三つを同じ紙に載せたことで、初めて候補が比較できた。

時計と道を見ながら移動にかかる時間を考えるビジュくんと友人
時計と道を見ながら移動にかかる時間を考えるビジュくんと友人(イメージイラスト)

「近くに住む」と「いつでも行く」は別の約束

友人が怖かったのは、移住そのものではない。近くに住むことで、家族の期待を全部引き受けることだった。親はたぶん、そう求めているわけではない。だが、話していないことほど膨らみやすい。「近いから」の後に続く言葉を、互いに違う意味で想像しているかもしれない。

ビジュくんは、友人に「毎週帰れると言って安心させたら」とは言わなかった。続けられるか分からない約束は、後でつらくなる。代わりに、友人は母親へもう一度電話をかけた。移住を決めた報告ではない。「近くに住めたら、どんなときに顔を見られると安心?」と聞くための電話だ。

答えは拍子抜けするほど具体的だった。たまに食事をしたい。通院の付き添いが必要なときは早めに相談したい。毎週来てほしいとは言っていない。友人も、仕事の日は急には動けないこと、休日なら予定を合わせやすいことを話した。二人とも、相手が思っていたより現実的だった。

家族の事情はそれぞれ違う。介護や育児など、簡単に分けられない役割もある。それでも、黙って距離だけ決めるより、暮らし始める前に役割と連絡方法を言葉にしておくほうがいい。Jターンの「ちょうどいい」は、地図ではなく会話で調整される。

家族に電話する友人を少し離れて見守るビジュくん
家族に電話する友人を少し離れて見守るビジュくん(イメージイラスト)

故郷の近くでも、新しい町では新人だ

友人は栃木に親戚がいて、土地勘も少しある。「完全なよそ者じゃない」と思っていた。だが候補の町では、店も通勤路も知らない。昔の同級生が住んでいるわけでもない。生まれ育った場所に近いだけで、新しい町での関係が自動的にできるわけではなかった。

ビジュくんは自分のIターンの準備と重ねた。初めての町に入るときは、名刺を配るより先に、普通の用事をつくる。通いたい店で買い物をする。公開されている活動を見に行く。地域の人が何を大事にしているか、知らないまま「役に立ちたい」と急がない。

友人は次の現地訪問で、住宅地を歩くだけでなく、夕方に使いそうな場所を探すことにした。食料品を買い、駅まで歩き、静かな道を一本曲がる。将来の「地元」を、観光写真ではなく自分の足で確かめる。小さな行動だが、移住後の孤独を減らす入口になる。

買い物をしたあとスーパーから駅まで歩く友人とビジュくん
買い物をしたあとスーパーから駅まで歩く友人とビジュくん(イメージイラスト)

支援制度は、同じ県内でも市町ごとに違う

候補が複数あるなら、支援制度も横並びにして調べたい。栃木県の移住情報サイトには県の制度と市町の制度が分かれて掲載されている。ただし、一覧に載っている制度が全員に使えるわけではない。移住前の居住・通勤履歴、転入先、仕事、年度、申請の時期などの条件がある。

友人は候補の市町ごとに、「気になる制度」「自分の条件」「窓口への質問」を一行ずつ書いた。対象かどうか分からないものには丸を付けず、疑問符を付ける。予算に算入するのは、公式窓口で条件を確認してから。それまでの資金計画は、制度なしでも成り立つ形で考える。

特にJターンでは、「故郷に近いから対象になりそう」という思い込みに注意したい。制度は感情の近さではなく、要件で判断される。友人は出身地の説明より先に、いつどこに住み、どう働いてきたかを整理した。

候補となる市町の支援制度と自分の条件をノートで比べる二人
候補となる市町の支援制度と自分の条件をノートで比べる二人(イメージイラスト)

一時間の答えを、試しに走ってみる

次の休日、友人とビジュくんは候補の町から実家まで移動してみることにした。ただし試すのは快晴の日の昼だけではない。友人は仕事が終わる時刻に合わせた別の日も予定表に入れた。「その道を普通の自分が動けるか」を知りたいからだ。

電話の最後に母親が「急がなくていいよ」と言ったことを、友人はビジュくんに話した。近くにいたい気持ちは変わらない。けれど、自分の暮らしを縮めてまで近づく必要はないと分かった。故郷から一時間。その数字は、試して話して、ようやく意味を持つ。

あなたがJターンを考えているなら、地図に線を引いた後で、一つだけ聞いてみてほしい。「近くに住むことで、お互いに何を期待する?」。答えが違っても、そこから計画は始められる。

夕方に実家から候補地まで実際に移動を試す友人とビジュくん
夕方に実家から候補地まで実際に移動を試す友人とビジュくん(イメージイラスト)

距離を試す日は、予定を一つだけ増やす

友人とビジュくんは、試走の日に寄り道をたくさん入れかけた。新しい店も見たいし、住まいの候補も見たい。だが予定が詰まるほど、肝心の「普通の移動」が見えなくなる。二人は実家から候補の町へ向かう往復を中心に据え、途中では普段の買い物だけをした。

駐車場に停めて荷物を持ち、家に入るまで。駅で降りてから住まいまで。経路検索には載らない数分が積み重なる。友人は「一時間」が実際には一時間ではなかった場所に印を付けた。逆に、予想より動きやすい場所もあった。数字で候補をふるい落とす前に、身体で確かめる価値がある。

帰りに母親へ電話し、「毎週ではないけど、月に何度か顔を見られそう」と話した。母親はその言い方のほうが安心すると言った。曖昧な「いつでも」より、現実の予定に近いからだ。友人は自分の暮らしを守りながら家族を気にかける距離を、少しずつ見つけ始めた。

移住先を決める前に平日の町を歩くなら、[ビジュくんの「通う実験」](./column-viju-visit-before-moving-20261004.html)も参考にしてほしい。

確認に使える公式情報

制度情報の確認日:2026年10月7日。支援の対象には移住前の居住・通勤履歴、移住後の就業等の条件があり、申請窓口は転入先の市町です。友人は候補市町を決めていないため、個別の補助額や対象可否は示していません。転入時期、対象年度、募集状況、事前相談や申請の時期は、候補市町の公式案内と窓口で確認してください。登場人物と会話は創作です。